2011年1月24日月曜日

きむらかおりの絵画


最初にきむらかおりの絵画を意識したのは、きむらがアサビの絵画科の学生の2年のときだった。タイトルは「デブが沼にささる」という奇妙なタイトルの絵だった。緑色の沼にヌードの太めの女性が沼の上に立っていた。大きさは20号程度の小さな絵だったが絵画そのものよりもタイトルのイメージ性に興味を覚えたことを記憶している。その絵は他の学生の現実性を超越したイメージの有り様に可能性を感じたことも確かである。
その後、作品の制作のための面接を重ねるうちに、出て来たテーマが「自己放棄」だった。普通に考えれば、「自己放棄」と言うテーマは経験を重ねた人格が所有する概念と認識していた。誰しもがそうだが、他者よりも自分が一番大事だし、自己が誰よりもかわいい。それは年齢を重ねていっても何ら変わらない考え方だが、世界のなかで自己が常に主体ではなく、一瞬でも他者やモノが真から主体に見える時があるのも事実である。絵画を描く基底はまずそのようなことが前提にあるだろう。それは単なる前提にすぎないがそれに早く気づくことは絵画のみならず、色々な出来事において重要なことのように思える。
3年になってから色面というか色斑によって画面を埋め尽くす画を描いていたが、そこには背景に溶け込みわずかに判別出来る人物が描かれていた。画面のなかに具体的に像としての人物はいるが背景も人物も同一の価値として描かれていた。
このことは、きむら自身の発言のなかで、モノも人物も風景も近距離で見れば差異として認識でき、名指すことができるが、果てしない遠距離、例えば天空の彼方に視点を設定すればモノも人物も風景も皆同じという価値観によっていると思える。
この話はどこかで既視感があり思い出して見た。それは現在ではGoogle earthがあてはまると思える。Google earthは天空から軍事衛星のようにエッフェル塔も自宅も認識出来る。それは倍率を上げて拡大すればのことで倍率を下げれば全てのものが同一に見える。ある意味、イメージを現実化したとも言える。
もう少し話しを進めてみる。吉本隆明は「ハイイメージ論」のなかでこの天空からの視線を「世界視線」(死あるいは終末からの視線)と言い次のように言っている。「ほんとうは、わたしたちのいう世界視線は、無限遠点の宇宙空間から地表に垂直におりる視線をさしている。しかもこの視線は、雲や気層の汚れでさえぎられない。また遠方だからといって、細部がぼんやりすることもない。そんな想像上のイデアルな視線を意味している。遠近法にも自然の条件にも左右されない、いわば像(イメージ)としての視線なのだ。この視線は無限遠点からみても10メートル上方からみても、はっきりとおなじ微細なディテールまでみえる架空の視線だ。」
Google earthによってであるが、経験的にも自宅の屋根は見えるが自宅の内部構造が見えないことに多少のいらつきを感じる。それはある意味、航空写真と近似している。そして、吉本隆明はこのように言っている、その世界視線は屋根でさえぎられ「生活空間の細かい内部を無化してしまっている。生活空間の内部で人びとがどんな表情で働き、遊び、恋愛し、泣き笑い、動きまわっているか等々は、人間の眼の高さや座高の高さの水平視線が加担しなければ想定できない。」
そして、卒業制作展あたりから色斑とともに「かろうじての輪郭」が画面に表れはじめた。最低限、人物だと認識できる輪郭線。色斑で埋め尽くされた表面に漂うように浮いている輪郭線。近作の「花のシリーズ」では、その輪郭線が顕著になってきている。そして背景は色斑ではなく、単一な色面となり、何回も塗り重ねられ絵具の物性の度合いが増している。その不透明感はまさに視線を遮断するように抜け道がなく塗られている。このことは、天空からの視線だけでなく、なんらかの夾雑的な視線が入っていることを意味しているように思える。最近作の「鵜原の葉っぱ」は完全な完成作を見ていないのでなんとも言えないところがあるが、「小島町団地のシリーズ」と考え方は近似していると思える。それは、天空からの視線を水平にしたことだろう。そそり立っているが、社会に埋もれる団地と同じように異常な大きさでそそり立つ「葉」。しかし、それもあらゆる緑のなかに埋もれてしまっている。このような、「存在はあるがない」というアンビバレンツな理念がこれらの絵画を支えて行くことだろう。
今回の個展はパフォーマンスを含むということになっているが、純粋に空間として作品を鑑賞したいというのが正直な感想である。
展示をご高覧になられた方々も忌憚のないご意見をよろしくお願いいたします。

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