2011年1月23日日曜日

画像としての写真

 人形町VISION’SCross Line展(20101214日〜22日)に出品している5人がアサビに在籍して学習した写真はフィルムだった。しかし、それから10年経ち、時代はデジタルに変化した。当時のフィルム写真でも情報の伝達媒体と表現媒体との二極化は始まっていてが、消滅しようとするフィルム写真が表現の領域を担い、デジタル写真は情報の伝達媒体として特化してきた。
 しかし、2010年になりテレビも地上デジタル化が進行しデジタルTVが各家庭に浸透しつつある。ブラウン管のTVは奥行き感があり、液晶のデジタルTVは切り貼りのコラージュのように見え、デジタルのほうが新しいから良いと言い切れないのではないかと思っていた。現実には液晶デジタルTVはブラウン管TVを各家庭から駆逐してしまった。実際のところ液晶デジタルTVの画像に慣れてしまうとディティールの細密感などはブラウン管TVでは絶対に出せない肌理の細かさを持っているように見え、またそれを美しいと思ってしまう。このようにメディアが変化し情報が過多になればなるほど、人間は精神のある部分が発達することも事実である。それは大脳が第一義的に支配する「感じる」という感覚の分野であると言われている。このような情報機器の発達により、私達の感覚は今までの感覚と異なってしまっていることを意味している。
 しかも、インターネットの発達により、YOU TUBEなどから動画の情報にアクセスできる。今まで「写真」とは流れ去ってゆく「時間」を、シャッターを切る事で、一瞬にしてその状況の本質を画像により伝達出来るメディアとしてきた。それはH・カルチエ・ブレッソンの「決定的瞬間」とでも言えることが象徴している。だが、現在のデジタルカメラを手にした人々はそのようには撮影しない。まるで動画を撮影するように、静止画像の連続が動画であるように、または動画像の一部が静止画像であるように、このような撮影をしている自分に驚くのである。そこにはフィルムに比して、デジタルのほうがよりコストパフォーマンスが高いこともあるだろう。だが、それだけでなく撮影した瞬間に画像を確認でき、不用な画像は棄てることが出来る。それはフィルムカメラのように「決定的瞬間」を狙うのでなく、動画像のように撮影した膨大な画像から選択すれば、どこかに「決定的瞬間」が存在しているのである。フィルムカメラである瞬間にシャッターを切ること、そこには決断、決定、自己確認(黒崎政男より引用)の要素が深く入り込んでいると言われている。まさに自分に驚くとは、自己確認を行っていない自分に驚くのである。
 伝達機能を失ったフィルム写真は表現媒体へと変化し、デジタル写真は情報の伝達機能の媒体にのみに特化していった。マクルーハンが伝達機能を失ったメディアは芸術になると言い、TVも芸術になる可能性がある。と言ったが、まさにこのフィルム写真の画像はあてはまるだろう。しかし、現在の今の状況は、写真として表現されたフィルムからの画像は表現としての重みを失いつつあるように見える。早急なスピードで私達の意識がデジタル化され、アナログ的にシャッターを切ろうとしても、「決定的瞬間」のような集中力がなくなっているとも、もう出来ないとも言えるのではないだろうか。撮影された一枚のフィルム写真のプリントを鑑賞すれば、撮影した人が何を考えていたか、どのような感性なのか、男なのか、女なのか、年齢は幾つ程度なのか等、あらゆることを推測出来たメディアであった。これからのデジタル写真の画像は、写真が写真としての存在意義である感情や自己認識等を発揮したのとは異なるものになるだろう。それは匿名性な自己が視覚的無意識としてスキャニングするように撮影することから、見たものを全部言葉にする言語機械のようなものになると思える。果たして、いつまでフィルムは存在するのだろうか。

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