2011年1月17日月曜日

キュビスムのありかたーパブロ・ピカソ


パブロ・ピカソ「カラフと三っのボール」1908年、エルミタージュ美術館 サンクトペテルスブルグ 


        
                                  
                            
パブロ・ピカソ「瓶とグラス、フォーク」1911~12年 クリーブランド美術館




ピカソは初期の分析的キュビスムや後期の総合的キュビスムと言われるように抽象絵画を描いたと巷では思われている。しかし、カンディンスキーやモンドリアンの抽象絵画とは同じ抽象と言っても異なるように思えるし、ましてや、抽象という言葉は、近代の表現に特有なものとして始めて抽象が発見されたわけではない。単なる抽象形態だけを取り出せば、それはアルタミラの洞窟画における動物の写実によって描かれたのと同じ位の古さで抽象形態も存在していたといわれている。それは子供の絵と同様に「最古の原始人は、対象について自分が知覚する外観よりも、対象について自分のいだいてる観念を表現する方が、はるかに容易だということに気がついていたのである」といわれている。確かに画面の形象だけで判断すれば、古代の文様のように抽象の形態があり、ピカソもカンディンスキーも抽象の形態と考えられる。
 では、ピカソの抽象絵画はどのようなものと考えたらいいだろうか?
 キュビスム(立体派)の始祖といわれるピカソは、セザンヌが「自然を円筒、円錐、球として扱う」という自然を単純化してその本質のみに還元するところを継承している。“光の瞬時”を感覚的にとらえ、網膜に身をゆだねた経験的感性により印象主義を推進したモネと異なり、セザンヌは「色彩の中にあるプラン!・・・・私は私のプランを色調と一緒にパレットの上でつくる。おわかりだろうか」と言っている。それは色彩の組み合わせで構成されてゆく自然過程の中に絵画の持つ自律的構造を見てとったのである。筆先がカンヴァスに触れ色彩が画面の上にのる時、それは、絵を描くという経験的感覚を包み込んで把握しながら、自然という世界と離脱し、画面自体で構築されてゆくのを感じたのである。この時から、絵画とはもはや単なる、外部世界を模倣したもの、「自然に向かって開かれた窓」ではなくなり、絵画という論理的整合性を持った、一つの空間表現であり、その画面の持つ法則が、自然とは一線を画した閉ざされた世界なのである。このようなセザンヌの世界の見方をモデルとしたピカソの絵画は、モネのような印象主義者のように対象—感覚による受容—了解、そして表出という図式から、より身体の内部感覚へと移っていったのである。そのような分析的キュビスムは、対象を一点からながめるのではなく、対象のまわりを巡ったり、顔を対象に近づけたりして遠隔や、近接作用を行い、視点を多様化してフォルムをバラバラに微細化し、解体してしまい、それを身体内部の構成力によって統一するのである。
それは、絵画の色彩や空間のありかたとともに、モノの本質とは何かの探求であったともいえるのである。
空間とモノについてのピカソとともにキュビスムを推進したブラックの言葉が残っている。「伝統的な遠近法にわたしは満足できなかった。・・・わたしをとくにひきつけたものーそしてこれがキュビスムの主な意味であったーはその胎動をわたしが感じていた新しい空間の具体化であった。・・・それはわたしにとって単に事物を見るだけではなく、それに触りたいという、日頃わたしが抱いている欲望にこたえてくれた。わたしをひきつけたのはこの空間である。なぜなら最初のキュビスム絵画とは、まさしくこの空間の探求だったのだから。」
 ルネッサンスから近代までを支えた視覚的空間、数理的科学として画面に与えられた、人工的図式である伝統的な遠近法は、事物の実体に触れてみたいという欲求を、視ることで触りたいたいという触覚空間へと変わっていったのである。それは、価値の異なる一つ一つの事物を等価値として拮抗するように、構成することで画面を作り上げてきたのである。
 それは例えば、コップの口が視覚的には、楕円に見えるとしても、実際の現実は円なのであり、事物のフォルムは、眼に見えるままには存在していない。このような、比較的、理知的な認識の基盤の上に立ち、コップを真上から見た円と、真正面から見たコップそのもののフォルムや、把手の側面からみた図や裏側から見た高台そのものを、すなわち、事物のフォルムの真の姿において記述しようとするために、まるでコップの展開図を合成したような、典型的分析的キュビスム(前期キュビスム)の表現が生まれることになる。
これは、一種の近接視覚の現象に近いものであり、顔を近づけて、事物の表面をすれすれに見て認識していくのである。そこで、対象は水晶体の破片のように、バラバラに解体され、対象の名称が何であるかという痕跡を留めないまでに解体されてしまう。その際に「色彩」は、事物の「実在」を損なうものとして退けられている。そして画面全体はモノクロームに近い色調が支配するのである。しかし、分析的キュビスムは、「実在」への希求を目指しながら、対象の名称さえも消滅しそうになるという、キュビスムの表現行為の中に、モノの本質を探りながら「実在」という言葉さえも消滅してしまう矛盾も含まれていたのである。
 ピカソの絵画は初期の「Carafe and Three Bowls」の静物画は5色程度の色彩の使用で、基本は明暗に還元している。そのためモノの量感を感じ、物質の実在感が増し、力強い表現とも言えるが、「盲目的に生きようという意志まで感じられるような力強さがある。分析的キュビスムの「Bottle,Glass,and Fork」は各々の物体の名称が無意味に感じられるほど破片化され、単なる明暗の物質と化している。そこには怖いような物質的実在感があり、まさにそれが「盲目的意志」を感じさせる絵画としているのである。

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